本サイト公開後の追記はこちら。

天使と悪魔小説カバー
「天使と悪魔」上巻に登場する主な科学者
ロバート・ラングドン
ハーヴァード大学教授 宗教象徴学専門
マクシミリアン・コーラー
セルン(欧州原子核研究機構)所長
レオナルド・ヴェトラ
セルンの科学者 カトリック司祭
ヴィットリア・ヴェトラ
セルンの科学者 レオナルドの娘

In collaboration with
角川文庫 14276, 14277, 14278 準拠
ソニーピクチャーズ 2009.5.15封切

1.「スイスのセルンが、反物質粒子の生成に先ごろ初めて成功した」
これは、1996年の”Physics Letters”誌に、CERNで実験していた研究チームが Production of Antihydrogen(反水素の生成)という論文を発表した事実を踏まえて書かれています。この時生成された反水素原子の個数は約10個でした。反水素原子は、反物質の最小基本単位です。
「天使と悪魔」でダン・ブラウンが反物質という用語を使う場合、多くの場合は反水素原子を指すものと考えられますが(「化学的痕跡は純粋な水素と同じ」上巻231頁)、「反物質の陽電子(上巻134頁)」のように、反物質を反粒子の意味に使っている箇所もあります。
2.「反物質は、通常とは逆の電荷を帯びた粒子からなるという点を除けば、正物質となんら変わらない」
水素原子は、電荷が正の陽子と電荷が負の電子からなり、反水素原子は、電荷が負の反陽子と電荷が正の陽電子からなる。したがって、この記述は非常に正確です。
3.「(反物質の)エネルギー効率は百パーセントである」
反物質が通常の物質と出会うと、「対消滅」によって消え去ります。その時に、質量mの物質が持っていたエネルギーmc2と、質量mの反物質が持っていたエネルギーmc2の和、つまり2mc2がガンマ線などのエネルギーとなって放出される。この記述は非常に正確です。
4.「核分裂のエネルギー効率は1.5%にすぎない」
だいたいは良いのですが、定量的には誤認があるようです。正確には0.1%程度です(ウラン原子一個の分裂で発生するエネルギーは約200 MeV、ウラン原子の質量は約220,000 MeV/c2、割り算して0.1%を得る)
5.「反物質一グラムが有するエネルギーは ... ヒロシマに投下されたものとほぼ等しい」
この数値は正確です(広島に投下された原爆にはウラン235が60kg使われたが、そのうち実際に核分裂に関与したのは1kg程度と推定されている。これはTNT火薬にして15-20キロトンに相当する。これに基づいた計算結果は、「広島に投下されたものとほぼ等しい」)
6.「最近まで、反物質はほんの少量(一度に原子数個)しか生成できなかった」
ポイント1で述べた通り。これは実際の論文の記述に基づいています。
7.「セルンは、新型の反陽子減速器の開発に着手した」
反陽子減速器 (Antiproton Decelerator)は、CERNにて反水素原子生成が成功した翌年に建設が開始され、小説「天使と悪魔」が上梓された2000年に完成しました。その結果、「はるかに多量の反物質の生成」が可能になったことは事実ですが、その量は後に述べるように、依然として非常にわずかなものです。
8.「歴史上もっとも凶悪な兵器を生み出す...」
反物質を兵器に使えるほど大量に生成することは、将来にわたって不可能です。後に詳しく述べます。
天使と悪魔映画ポスター

上巻扉の直後には、CERN研究所が反物質の生成に成功し、新型の反陽子減速器の開発に着手したこと、反物質1グラムが有するエネルギーはヒロシマに投下された核爆弾に相当すること、などが「事実」として記されている。これらは本当だろうか?

2009年3月19日追記:3月18日に、本件について記者会見をしました。その意図について若干補足説明をさせていただきます。

「天使と悪魔」への反物質の登場は、CERNで実際に行われている反物質研究に興味を持っていただく良いチャンスである一方「科学者達がこっそりと危険な研究をしている」という誤解を生む懸念もあります。

エンターテイメントの科学性を論じるのは「やぼ」と承知していますが、原作冒頭から「事実」として反物質のことが記されており、一般の方々には、虚実の境目が見分けにくいと考え、天使と悪魔に登場する反物質の虚実皮膜を絵解きし、我々日本グループも深く関わっているこの研究の現状についてお伝えしたかったのです。ちなみに、私自身は(CERNが出てくることもあってなおさらのこと)原作を楽しく読みました。

CERN研究所が存在し、そこで反物質研究が行われていることは事実です。 しかし、原作のように1/4グラムもの反物質を作るには、宇宙の年齢(137億年)でも足りないくらいの時間がかかります。反物質がエネルギー源となったり、凶悪な兵器となったりすることはありえません。

反物質研究は、ディラックによる陽電子の予言、アンダーソンによる陽電子の発見、セグレとチェンバレンによる反陽子の発見と、数々のノーベル賞を生んでおり、2008年度の小林・益川両先生の理論も、宇宙になぜ反物質が存在しないかを解明する糸口となるものです。CERNにおける私たちの反物質研究は、このような系譜に連なるものです。私自身の反物質への取り組みについては、2008年度仁科記念賞受賞ページをご覧下さい。

2009年5月3日追記:CERNにおける反物質研究の業績により、私が第62回中日文化賞受賞者に選ばれたことが、本日の中日新聞朝刊で報じられました。

2009年5月5日追記:本日ジュネーブの映画館を貸し切りにしてCERN広報室主催特別試写会が開かれ(ドイツ語とフランス語字幕入りバージョンを)一足先に観てきました。原作の骨格を使い、大幅な整理をして、テンポあるエンターテイメントに仕立て上がっていましたが、公開前にネタバレのコメントはしません。

2009年5月9日追記:本日放送の「世界不思議発見」では、CERNで反物質研究をやっている私たち「アサクサ」チームの堀正樹博士が、反陽子減速器や反物質トラップなどの「真実」をお伝えしました。私もジュネーブからインターネットを駆使して視聴。

2009年5月12日追記:CERNが"Angels & Demons" the science behind the story というサイトを公開しました。

2009年5月12日追記:5月15日に世界同時公開と思っていましたが、実はスイスなどいくつかの国では明日5/13日封切りなんだと、さっき気づきました。ジュネーブにて。

2009年5月13日追記:スイス封切り記念ネタバレ。映画にはCERNでの実写も登場しますが、CERN所長は登場しません。

2009年5月15日追記:今朝帰国し、K社の方と日本語字幕版を見てきました。CERNの場面の字幕が気になって注視してしまったのですが、特殊な言葉を非常に上手に訳していると感心しました。強いて言えば "Luminosity" という特殊な物理用語の訳は難しかったようです。というのも、この言葉はこちらの解説にもあるように、我々も普段カタカナで書いていて、定訳が無いのです。

2009年5月16日追記:K社の方に教えていただきました。映画館で販売されている「天使と悪魔」のパンフレットには、【「天使と悪魔」が描く反物質の虚と実〜東京大学早野龍五教授の講義より】というコラムがあるんだそうです。