EPRパラドックスの検証

概要

量子力学的に絡み合った陽子対を高い純度で生成し、 そのスピン相関を測定することにより、 ベルの不等式の破れを実験によって証明した。 スピン相関の測定結果は量子論による予言に従い、 アインシュタインらが「不可解な遠隔作用」と忌み嫌い 量子論の不完全性の根拠として挙げた「非局所相関」を、 強い相互作用をするフェルミ粒子系において高精度ではじめて確認した。 この結果は、 アインシュタインらの主張が間違っていることを示すとともに、 量子力学の基本的概念を確認するものである。

背景

量子力学と非局所相関

量子論では、 遠く離れた2地点で起こる物理現象に関する予言や知識が 分離不能になって絡み合う、ということが起こる。 即ち、このような絡み合った状態にある2粒子系においては、 一方の粒子に対するある物理量の測定が 他方の粒子に対する測定結果に影響を及ぼす。 これを「非局所相関」という。 アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンは、 この非局所相関の存在を根拠として 1935に 「量子論の波動関数による実在の記述は不完全である (量子論は正しいかもしれないけれども完全な理論ではない) 」 ということを主張する論文を発表した。 (これは論文の著者の頭文字をとってEPRパラドックスと 呼ばれるようになったが、 著者はパラドックスであるとは言っていないことを注意したい。) これ以後、量子力学に代わる局所実在論 (「隠れた変数」の理論) の構築が 多くの人によって試みられた。

ベルの不等式と光子対を用いたその破れの検証

そのような情況の中で、 ベルは、1964年に、 量子論と全く同じ予言をするような「隠れた変数」理論は 存在しないことを証明した。 即ち、ベルは、「隠れた変数」理論では決して記述できない 物理現象が確かに存在するということを 不等式の形で表現した。 この不等式は「ベルの不等式」として知られている。 ある物理現象がこのベルの不等式を破ることから、 アインシュタインらの主張が正しいかどうかということを 実験によって確かめられるようになったのである。

このベルの不等式に関する実験は、 絡み合った状態にある光子対を用いて これまでに多数行なわれている。 それらの実験では、ベルの不等式を破る現象あることが高精度で確認されている。

フェルミ粒子を用いた実験とその困難

光子は電磁相互作用をする質量のないスピン1のボーズ粒子である。 しかし、 ほとんど全ての量子力学の教科書に ベルの不等式の破れの検証のための 思考実験として書かれているものは、 強い相互作用をして質量を持つスピン1/2のフェルミ粒子に関する実験である。 この実験では、このスピン1/2の2粒子が 反平行に組んでスピンが0となるように重ね合わせられた状態 (スピン1重状態と呼ばれ 1S0と表す) にある系が崩壊したときに、 崩壊してできた2個の粒子のスピンの向きを 同時に測定するという実験である。

この実験を行うためには、2個のフェルミ粒子に対し

  1. 高純度の[1S0]状態を実現すること
  2. そのスピンの向きを同時に測ること

が必要である。 ところがスピン1/2の2粒子系においては この2つの要求を同時に満足することは非常に困難である。 このために、 フェルミ粒子系に対するスピン相関測定という「教科書実験」で、 ベルの不等式を議論できるほどの高精度の例はなかった。

今回の実験とその特徴

そこで、我々は、 このような量子力学的な絡み合いによる非局所相関が、 強い相互作用をするフェルミ粒子系においても存在することを示すために、 絡み合った2陽子 (陽子は強い相互作用をするフェルミ粒子である) のスピン相関を測定して ベルの不等式の破れを検証するという実験を行った。

この実験においては、

ことにより従来の困難を克服し、 強い相互作用をするフェルミ粒子系における スピン相関の高精度測定を目指した。 ここで2Heとは 2つの陽子が核力により1重状態 [1S0] に組んだものを指す。 2陽子間の相対エネルギーは [1S0] の励起エネルギーに相当するが、 実験的にコントロール可能である。 つまり十分に相対エネルギーの小さい状態、 例えば0.5MeVという小さな相対エネルギーにある [1S0] 状態を容易に実験的に選別することができ、 理想的な1重状態を実現できるということである。 一方 (d,2He) 反応は、 重陽子 (d) が標的と荷電交換反応を起こして 2He粒子となる散乱過程であり、 我々のグループには従来からこの荷電交換反応を 核分光研究の手段として利用してきた多くの実績がある。

実験は、 埼玉県和光市の理化学研究所加速器実験施設において、 磁気スペクトロメータSMARTの焦点面に偏極度計EPOLを設置し、 リングサイクロトロンによって加速された 重陽子ビームを用いて行った。

実験の概念図

実験の概念図。 高純度の1重状態にある2個の陽子のスピンを 偏極度計EPOLを用いて同時に測定する。 このEPOLは 2πのアクセプタンスを持ち、 スピンの測定軸を事後選択出来るという点で、 ベル測定のための測定器としてとりわけ優れている。

EPOLの建設と性能評価

建設

2陽子のスピンの向きを同時に測定可能な偏極度計EPOLを建設した。 写真の中の二人 (右が筆者、左は大学院生の斎藤孝明君) が手をかけている装置がEPOLの中心装置である 前段の多芯線ドリフトチェンバー (MWDC) であり 三菱財団の援助を受けて製作した。 これは2粒子の飛跡を確実に求めるために、 通常のものに比べワイヤー面に冗長性を持たせ、 (X1,U1,V1), (X1',U1',V1'), (X2,U2,V2), (X2',U2',V2'), の12面構造になっている。 X,U,Vはそれぞれワイヤーを 上下、左斜め、右斜めに張ったものを表す。 全体で1273本の細線ワイヤーが張られている。

EPOL with Sakai and Saito

理化学研究所加速器実験施設E4実験室にて。 焦点面偏極度計EPOL。 左: 斎藤、右: 酒井。

EPOL schematic view

EPOLの概念図。 入射してきた2陽子は偏極分析標的の炭素ブロックで同時に散乱される。 散乱の前後の陽子の飛跡をMWDC (多芯線ドリフトチェンバー) で追跡することができる。

性能評価

スピン偏極したビームが 炭素ブロック中で散乱されるとき、 「右」側に散乱される粒子の個数と 「左」側に散乱される粒子の個数とは異なる。 EPOLでは、この個数の非対称の度合いから、 もとのビームの偏極度を求める。 このため、偏極度計EPOLを偏極測定に用いる前に、 予め偏極度を知っているビームの散乱により どの程度の非対称が生じるかを知っておく必要がある。 このために、偏極陽子ビームをEPOLに照射して 非対称を測定することにより、 偏極度計の較正を行った。

スピン相関測定

実験の概念図

実験の全体図。 エネルギー270MeVの重陽子 (d) ビームを用い、 (d,2He) 反応によって、1重状態の陽子対2Heを生成、 磁気スペクトロメータSMARTによって運動量分析し、 偏極度計EPOLを用いて陽子対のスピンを同時に測定する。

スピン相関測定は、 エネルギー270メガ電子ボルトに加速した重陽子ビームを 液体水素標的に入射し、 (d,2He) 反応によって、 量子力学的に絡み合った スピン1重状態の陽子対2Heを ほぼ100%の純度で生成した。 これを磁気スペクトロメータSMARTで運動量分析し、 空間的に離れた2陽子が スピン1重項状態 (2He) にあることを 事象ごとに確認した。 その後、2陽子のスピンの向きの相関を偏極度計EPOLで測定して スピン相関関数の値を得た。 EPOLでは2個の陽子のスピンの向きを 同時に且つ任意の方位角に関して観測できるというすぐれた特長を持つ。 これにより、実験終了後のデータ解析時に、 2つの陽子のスピン基準軸を任意の方向に設定できる (事後選択) ことも大きな特長である。

結果

スピン相関関数 C(Φ) と CHSHタイプの関数 S(Φ) = 2 C(Φ) + C(-Φ) - C(3Φ) とを並べて図に示す。

実験結果

スピン相関係数 C(Φ) と 関数 S(Φ) の図。 曲線が量子論の予言値、 灰色の領域が局所実在論の予言する領域である。 実験で得られた結果は黒丸で示してある。 水色の帯で表した誤差は統計と系統の和。 実験値は量子論の予言値によく一致していることが見て取れるであろう。 各点は同じデータのセットから条件を変えて出したので、 互いに (ほとんど) 独立でないことに注意! 誤差は統計と系統の和。

この図では、実験結果を黒丸で、 またその誤差 (系統誤差+統計誤差) を水色の帯で示し、 量子論の計算による値を赤線で示した。 ここで実験値は同じデータセットから導出されているので その誤差はそれぞれ独立でないことを注意しておく。 結果は明らかにCHSHタイプのベルの不等式を破っており、 量子力学的非局所相関を強く支持しているS(Φ) が最大になる Φ = 45° における関数 S(Φ) の実験値は Sexp(45°) = 2.83 ± 0.24stat ± 0.07sys と得られ、これは99.3%の信頼度でベルの不等式を破る結果である。

  

結論

我々の結果は、 アインシュタインの嫌った「非局所的遠隔作用」が、 強い相互作用をするフェルミ粒子においても存在することを 明らかにするとともに、量子力学の基本的概念を確認するものである。 さらにこの結果は、 量子力学的絡み合いがコヒーレンス長の 1013 - 1014 倍もの遠距離においても 保たれていることを示す驚くべきものでもある。 これは2陽子の波束から推測されるコヒーレンス長が 10-14 mと短いことによる。 多くの高精度の実験例のある光子ペアーでは、 光子間距離が コヒーレンス長の高々 104 倍程度であることを注意しておく。

  

波及効果

現在では、 絡み合い状態にある粒子対は、 EPRペアーと呼ばれており、 量子情報という新しい研究分野において、 量子テレポーテーションや、 量子コンピュータなどの最先端技術に利用されている。 多くの場合EPRペアーとして光子対が研究に使われ、 量子光学という重要な分野を形成している。 我々の測定から、

  1. 陽子EPRペアーが強い相互作用の到達距離 (10-15m)に比べて十分に遠く離れ、
  2. 多くの物質を通過しても、

絡み合い状態が頑丈に維持されることが明らかになった。 この絡み合い状態の頑丈さは、 量子テレポーテーションや、 量子コンピュータなどへの応用に相応しい性質であり、 将来の発展が期待される。

用語解説

絡み合った状態
2つ以上の粒子が直接相互作用できないほど遠く離れていても、 系全体としてはつながっていて 相互に切り離すことができない様な状態を指す。 非局所相関の原因となる。
非局所相関
空間的に離れた場所に置かれた装置間で、 一方の測定が他方の測定に影響を与えること。
隠れた変数
量子力学で表れる非局所的相関が理論の不完全性によるものとして、 その欠点を補うために導入する未知のパラメータ(変数)。
ベルの不等式
隠れた変数理論 (局所実在論) による、 遠く離れた2地点で行われる2つの実験の測定値の間の関係に 関する不等式。
フェルミ粒子
フェルミ統計に従い半整数のスピンを持つ粒子。 電子、陽子、中性子、ニュートリノなど。
スピン1重項状態
2つのフェルミ粒子 (ここでは陽子) のスピンが 反平行に組んだ状態で、全スピン角運動量がゼロの状態。 1S0と表現する。
重陽子
重水素の原子核。陽子1つ、中性子1つから成る。
2He
通常のヘリウムは4Heで、 陽子2つ、中性子2つでできている。 2Heは陽子2つでできたヘリウムであり、 2つの陽子のスピンは反平行に組んだ絡み合ったスピン1重項 状態にある。 陽子間に働く電気的反発力のために短時間 (10-21秒程度) で分裂する。
1 H(d, 2He) n 反応
重陽子(d)ビームを水素(1H)標的に当て、 核反応により(2He)が作られ中性子(n)が残る核反応を表す。 酒井グループでは1980年代からこの特殊な反応(d, 2He)を使い、 原子核を研究している。
偏極度計EPOL
スピンの向きを測定する装置を偏極度計と呼ぶ。 陽子と炭素標的との散乱過程が、スピン・軌道力により、 左右の非対称を生じることを利用してスピンの向きを測定す る。 2つの陽子のスピンの向きを同時に測定できるように設計さ れた装置がEPOLである。 EPOLはアインシュタイン偏極度計(Einstein POLarimeter)の 略称。
スピン基準軸の事後選択
スピンの向きは空間に固定された座標系を基準に定義 (測定) される。 一般には偏極度計の持つ固有座標軸で測定できる スピンの向きは決まってしまう。 EPOLは2πアクセプタンスという際立った特長をもつため、 空間座標軸に制限されずに、 2陽子のスピンの向きを測定できる。 実際は、測定時に散乱データを取得して、 コンピュータに蓄積し、 後日データ解析時に解析者が任意の座標軸を設定して、 その軸に関してスピンの向きを求める。

発表論文

  1. H. Sakai, Y. Satou, T. Saito and A. Tamii

    Spin Entanglement measurement of Two Protons

    J. Phys. Soc. Jpn. 72 Suppl.C, 193-195, (2003).

    http://jpsj.ipap.jp/journal/supplement/72C/193.pdf

  2. H. Sakai, T. Saito and A. Tamii, T. Kawabata and Y. Satou

    Measurement of the Spin Entanglement of Two-Proton System

    Symposium on Symmetries in Nuclear Structure. ed. by A. Vitturi and F. Casten, World Scientific Pub. Co. p372-377 (2004).

  3. T. Saito, H. Sakai, T. Ikeda, K. Itoh, T. Kawabata, H. Kuboki, Y. Maeda, N. Matsui, M. Sasano, Y. Satou, K. Sekiguchi, K. Suda, A. Tamii, T. Uesaka and K. Yako

    Experimental test of Bell's inequality via the 1H (d,2He) n reaction.

    Few-Body Problems in Physics, ed. by Kalanter, Timmermans and Bakker. AIP Conf. Proc. Vol. 768, p62-64 (2005).

    doi:10.1063/1.1932870

  4. H. Sakai, T. Saito, T. Ikeda, K. Itoh, T. Kawabata, H. Kuboki, Y. Maeda, N. Matsui, C. Rangacharyulu, M. Sasano, Y. Satou, K. Sekiguchi, K. Suda, A. Tamii, T. Uesaka, and K. Yako

    Spin correlations of strongly interacting massive fermion pairs as a test of Bell's inequality

    Phys. Rev. Lett. 97, 150405 (2006).

    doi:10.1103/PhysRevLett.97.150405

Acknowledgement

本研究は三菱財団ならびに科学研究費補助金・基盤研究 (B) 「陽子対スピン相関測定によるEPRパラドックスの検証」 (研究代表者・酒井英行)で得られた成果である。

酒井研究室: 113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学理学部1号館 (本郷 アクセスマップ/キャンパスマップ) 最終更新日時: 2008-06-05 17:36:11